クリスマス・イブ。年明けを前にしたこの一大イベント。
誰かに恋をする身としては、ここ一番、絶好のチャンスだ。できることなら逃したくはない。
(今日こそは……、今日こそは……。一歩だけでも、勇者さまにアプローチするの……! ゆ、勇気を出すのよ、私!)
自分に言い聞かせるように、私は大きく深呼吸をする。
いつも、いつもそうだった。ずっと勇者さまのことを見ているのに、ふと目が合うと慌てて逸らしてしまう。話していても、メールをしていても、何でもないように振舞ってしまう。――最初の一歩が、なかなか踏み出せない。
ほんの一ヶ月と少しもすれば、バレンタインデーだなんてイベントもある。生まれて初めての本命チョコというものを用意してみたいが、このままの私ではそんなこともできやしないだろう。
そして今日。彼が「バイト以外、特に予定は無い」と言っていたのは小耳に挟んで知っていた。休憩中にでも会えなければもうチャンスは無いだろう。
当たって砕けろ、という言葉もある。それにもうこの店まで来てしまったのだ、あとは行くしかない! 再び、大きく深呼吸をして、私は顔を上げてバックヤードの扉を開ける。
「あ、あのっ、勇者さま! そ、その、えっと……!」
「姫よ……、勇者なら30分ほど前に上がってしまったぞ」
「え、えぇっ!?」
王様こと父上の無情な一言。――ああ、私よ。勇者さまとすれ違ってしまうとはなさけない。砕ける前に、当たることすらできなかった。
「……し、失礼、しました……。…………」
自分でも驚くほど弱々しい声。半分泣きそうになりながら、私はその場を後にした。
見事なまでの空振りに、すっかり落ち込みながらの帰り道になってしまった。とぼとぼだとか、しょんぼりだとか、今の私にはそんな擬音が似合うだろうか。
気持ちが下向いて歩幅も狭くなっているのか、帰路がとても長く感じる。一人俯いて歩く私の姿は、この賑やかな雑踏の中には似つかわしくないだろう。
すぐそこなのにずっと遠くに感じる通りの喧騒。そんな中から、よく聞いた声が耳に届いたのは偶然だったのか。
「――いませんよ。僕、ずっと一人パーティでしたし」
はっとして、足元ばかりを見ていた顔を上げる。そこにいたのは紛れもない、捜していた勇者さまその人だった。
とっくに帰ってしまったものだと思っていたのに――駆け寄って声をかけようとした私の顔はどれほど明るいものだったろうか。
「……っ……!」
それも束の間のこと。すぐに私の足は止まった。
彼と話している女の子。あの子は誰だろう? ただの客引きの人にしては親しげだ。何より、普段はあまり余計なことを喋らない印象の勇者さまが、楽しそうに話をしている。
「――今度僕と一緒にクエストでもどうですか? 物は試しに」
「――そう来ましたか。ふふ、私は高いですよ?」
勇気が、当たる前から砕けてしまうようだった。ああ、そうか……納得と悲哀が表裏一体になった瞬間だった。
普通、早く上がったはずの勇者さまがまだここにいることは考えにくい。それは、彼が親しい人――それも女の子と話を弾ませていたからだったのか。……割って入っていけるだけの強さも勇気も、生憎持ち合わせてはいなかった。
私が意気も消沈して踵を返そうとした、まさにその時のことだった。何らかの気配を感じて、私はもう一度だけ振り返る。
気配の主は意外なものだった。――トナカイのような、そうでないような。サンタ服の彼女の隣で、着ぐるみがこちらを見ている。……気がする。なんとなく目が合った、ような気がした。着ぐるみさんが軽く片手を振る。
一瞬の間。足を止めたその瞬間、「かの人」がこちらに振り向いた。
「……あっ……」
見ている私、気が付く勇者さま。いつものパターンだった。……なのに、いつものように目を逸らして逃げることは、できなかった。
「えっ……」
こんな所で出会うとは予想できなかったのか、流石の勇者さまにも驚きの表情が浮かぶ。
「ひ、姫様!? ど、どうしてここに……、……じゃなくて……!」
「ゆ、勇者さま……! あ、あの、その、わたし……」
――なんだか、ごめんなさい。勇者さまに仲の良い女の子がいること、みんなには内緒にしておきます。
色々なことが頭のなかをぐるぐると巡る。巡りすぎて、混乱して何も言葉にはならなかった。
少しの間。頭の中がいっぱいいっぱいで、とても長く遠い出来事の中にいるような心地だった。
「――ふたつ頂けますか」
「――500Pになります。どうぞ」
勇者さまと彼女が何事か話している。その内容さえも、まるで耳にも頭にも入ってこなかった。
「姫様」
「えっ?! は、はいっ!!」
彼に呼ばれて、一気に意識が引き戻される。声が上擦ってしまったことも、気にしている余裕も無かった。
動揺する私の前に、一つの箱が差し出された。
「これ。良ければ食べてください」
「え……? あ、あの……」
ピンク色のその箱、それはクリスマスケーキだった。サンタ服の女の子が売っているものだ。ふと見れば彼女は道行く人々に揚々とケーキを売り込んでいた。……営業モード、というものだろうか。
私が言葉を出せないでいるうちに、勇者さまは少し不安そうな顔を見せた。
「折角ですから。お嫌いだったらすみません」
「い、いえっ、そんな事はっ!!」
ぶんぶんと首を振り、もらった箱を抱きしめる。元々甘いものが大好きで、新作のコンビニスイーツが入荷されるたびにわくわくしている私。ましてや、勇者さまがくれたプレゼント。「嫌い」だなんて、思うはずもない。
――お礼を言わなきゃ。それに、もっと言わなきゃいけないことが――。そんな思いも裏腹に、彼は片手を上げ、踵を返そうとする。
「メリークリスマス。それじゃ、僕はこれで。皆さん、良い夜を」
「あ……、……」
少しの間。一瞬で過ぎ去ってしまいそうな時間。
――勇気を出すなら、今しかない。そんな気がした。
「あ、あのっ、勇者さまっ!」
彼の側へと駆け寄り、今日一番の大きな声で呼び止める。これなら、父上からも花丸をもらえそうだ。
「そ、その……、……よ、よろしければ、その……」
それをピークに、尻すぼみに細くなる声。それでも
「こ、このケーキ……、……わ、私と、一緒に……」
――食べてくれませんか。
遂に、遂に言えた。言ってしまった。最初の一歩、ようやく踏み出すことができた。ひとまずの喜びと安心、そして後戻りのできない緊張で胸がいっぱいになる。今の私は、サンタ服よりも赤い顔をしているかもしれない。
まだ、勇者さまの答えは聞けていない。それでも私は、背中を押してくれたこの聖夜に、感謝せずにはいられなかった。
***
姫が去った後のバックヤードでは、成り行きを見守っていた一同が盛大に溜息をついていた。
「姫様……。あーあ、勇者……」
「フラグバッキバキだよ。むしろ一周して神回避だよ。何やってんだよ」
姫への同情と、勇者への呆れを通り越した感嘆。その場にいる皆が皆、肩をすくめる。――こうした流れも、今に始まったことではなかったのだが。
今更、表で取り沙汰して噂にするまでもない。それが今現在、一同が二人に寄せている感想だった。元々は姫に想いを寄せていた者もいたのだが、肝心の姫があまりにも勇者に一直線で、最早横から入る気も失せるらしい。元々の噂好きにそうした人らも加わり、野次馬が勢力を広げた結果がこれだった。
「なんかイベントでも起きなきゃ進まないかもなー」
「イベント? って、例えば?」
ちょっとした出来事から始まり、最後には好き勝手に話が広がっていく。一同はこぞって、噂話というものの本領を遺憾なく発揮していた。
「勇者が知り合いの女の子に会って話してた所に姫様が来て、あらぬ誤解を招いて……、とか」
したり顔の言葉に、周囲に笑いが巻き起こる。言った本人も一緒になって笑っていた。
もう一人が可笑しさを隠し切れない様子で続ける。
「まず誤解は解かなきゃだよねー。で、その後はなんだかんだで平和に、ってか」
「あるある! いや、無いかー」
何度目かの笑いが起こる。イブの夕刻にバイトに集う者同士、噂話にも華が咲くというものだった。
「こりゃ、おぬしら。雑談もほどほどにするのじゃ」
とはいえ、裏方仕事も暇ではない。店長が一言、一同に釘を刺した。
「はい、店長!」
店長だって、全部聞いてたくせに……思いながらも、それは誰も口には出さない。各々素知らぬ顔で、何事もなかったように業務を片付け始めた。
「……勇者よ、姫よ……王として、父として、店長として、もどかしい事この上ない。今日こそは、なのじゃ!」
――その実、誰よりも二人の行く末を気がかりにしている店長。その心の声は、かの二人に届くのだろうか? 答えは、王様でさえもまだ知らない。